苦難に耐える目的

「天路歴程」の著者バニヤンは、1660年から12年間投獄されていました。福音を宣教しないと誓約すれば釈放されたのですが、拒否したのです。彼には、妻と子供たちがいました。娘は目が不自由でした。家族が面会に来るたび、家族、特に娘のことが不憫で、胸が張り裂けそうでした。しかし、バニヤンはこう書き残しています。
 「神の言葉が今ほど心に深く入り込む時はなかった。ふだんは何気なく読み過ごしていたみ言葉が、監獄の中では光を放った。キリストが今ほど、リアルにはっきりと迫ってくる時はなかった。この方を見、この方の臨在を感じることができた。この体験は到底表現できない。主は憐れみ深く、私から試練に打ち勝てるように強くしてくださった。主の慈しみをもっと味わうために、さらに大きな試練をくださいと祈りたくなるほどだった。」
 バニヤンのような苦難に会って、同じような境地に達した信仰者は少なくありません。ルターも死を覚悟するほどの迫害を受けなければ、今日の自分はなかった、と言っています。
 クリスチャンであっても、罪支配する世界に生きている限り、患難に会います。主は私たちがバニヤンと同じ信仰と祝福に近づくために、試練を許しておられるのです。聖書は、試練を何か思いがけないことが起こったかのように驚かず、喜べ、とさえ教えます(Iペテロ4:12,13)。バニヤンのように主に誠実に生きれば、なおさら火のような試練を受けて、さらに主に近づくことになるのです。
 信仰ゆえの迫害であろうと、この世から受ける理不尽な苦しみであろうと、自分の弱さのゆえに引き起こした自業自得の苦しみであろうと、大きな苦難、小さな苦難であろうと、主の恵みを受けて主に近づく機会が来たと信じてください。してはならないのは、責任転嫁、自暴自棄、逃亡。そして最悪なのは主を呪い、自分の人生を呪うことです。クリスチャンは、御言葉と祈りと苦難で成長していくのです。その成長を体験すれば、患難さえも喜ぶことができるようになります。