わからなくても従う

アブラハムは主と、「主に無条件に祝福され、そして世界に対して祝福の源となる」という契約を結びました(創世記12章)。アブラハムはそのとおり、主の祝福を受けるだけの信仰の行いがあろうがなかろうが、あるいはときには恥ずべきことをしでかしてさえも、実際に主の祝福を受けるという体験をします。
そのアブラハムが、あるとき、主から独り子イサクをモリヤの山でいけにえとしてささげよと命じられます(22章)。百歳になって祝福として授かった子です。アブラハムはその翌朝早く、支度を調えモリヤの山に向かいます。主の命令の意図を理解していたかどうか、わかりません。主に、「なぜですか」とも問うてはいません。主と契約を結び、主の祝福を見たアブラハムは、ただ主のことばであるから従うという姿勢を貫きます。それがアブラハムの信仰です。そうして彼は、今日、「世界の祝福の源」となっています。
ヨブは「潔白で正しく、神をおそれ、悪から遠ざかっていた」(ヨブ1:1)人で、子ども10人と多くの家畜を所有していました。しかし、そのすべてを失い、自らも悪性の腫物に打たれます。ヨブはこの不条理、理不尽が理解できず、「神と語りたい」と挑みます。それでも最終的には、理解できないまま、全知全能の主のなさることを受け入れ、前の半生の二倍の祝福を受けます。
 私たちはイエス・キリストと「新しい契約」を結び、永遠のいのちを受け、神の国の祝福を享受し、復活の約束を受けています。その上で、自分の頭で理解できなければ、キリストのことばであっても従わない、という姿勢を取ってはいないでしょうか。そういう癖が染み付いているのです。もしそうなら、多くの祝福を逃していることになります。
イエスは言われました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(ヨハネ 13:7)。誰があなたの主なのか。キリストですか、あなた自身ですか。「自分を信じなさい」と世は言います。しかし、聖書は「主は私の羊飼い」(詩篇23:1)と教えます。