?「存在自体が尊い」と実感できるために

?「存在自体が尊い」と実感できるために
 「あなたはこの世でオンリーワンの存在だから尊い」と言われても実感できないように、「あなたの存在自体がそのままで尊い」と宣言されても、やはり実感できません。ただの言葉の理屈に過ぎないからです。実感できるためには、存在自体が現実に愛されなければなりません。そして、その愛が実際に感じられなければなりません。
 奴隷と奴隷主のやり取りを聞いてください。奴隷が主人に言います。「われわれはあなたがたに虐待されていても尊い存在なのだ。」奴隷主は鼻で笑って言います。「私に支配され、自由がなく、私の思い通り生かしも殺しもできるのに、なぜ尊いと言えるのか。」「われわれもあなたと人間だからだ。」「人間だと・・・。よかろう。人間だと認めてやろう。しかし、人間であればなぜ尊いのか。お前を所有している私が、お前たちを尊く思わず、尊く扱いもしなければ、お前たちは人間であっても尊いとは言えない。」
 私は、論理としては奴隷主の言っていることが正しいと思います。人間は人間だから、存在自体で尊いのではないのです。実際に尊く扱われなければ尊くはないのです。
 そこでもう一度、イザヤ書43章4節を持ち出しましょう。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
これはイスラエルに対して神が言われた言葉ですが、「わたしの目」つまり「神の目」にとって尊いのであって、「神の目」以外の別の目にとっても尊いことを保証しているわけではありません。実際、イスラエルは主の目には尊くても、エジプトやアッシリアやバビロンやローマの目には尊くはありませんでした。イスラエルはそうした大国に何度も侵略され、苦しめられ、滅ぼされたのです。また、その子孫のユダヤ人も、異邦人の目には尊くありませんでした。放浪する国々でキリスト教徒やナチスや旧ソ連の共産主義者に迫害・虐殺され、そして現在はアラブ人にその存在自体を憎悪されています。神から離れれば、あるいは神から見放されてしまえば、イスラエルは尊くないのです。いや、そもそも愛なる神が存在しなければ、イスラエルは尊くも何ともありません。イスラエルは「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言ってくれる神との関係においてのみ尊いのであって、存在自体で尊いのではないのです。確かに、神は彼らを愛し、尊いと見ておられます。しかし、彼らが主なる神に立ち返り、その愛を受け入れるまでは、彼らは存在自体で尊いとは実感できません。それはイスラエルに限ったことではありません。私たちについても同じことがいえます。
 聖書には、私たちの存在価値を保証している言葉がたくさんありますが、その一つはこれです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)。神は、神の独り子イエスを犠牲にしてまで、私たちを愛されたというのです。これが私たちの尊さの根拠です。
神は私たちの存在自体に価値があるから、私たちを愛しておられるのではありません。むしろ、存在自体には価値がない私たちを愛して、実際に尊く扱ってくださるから、私たちの存在は尊くなるのです。だから神の愛から切り離されれば、尊くなくなってしまいます。あるいは、神を認めない人は、つまり、神の愛を拒絶する人は、「私の存在自体が尊い」とは言えません。前述したとおり、自分で「存在自体が尊い」と宣言しても、その尊さを支えるものがないからです。
 存在自体は決して尊くはありません。しかし、あなたが神に愛されていることを受け入れるなら、あなたの存在は尊くなるのです。