ドラマ「オスマントルコ」

トルコの大河ドラマ『オスマン帝国外伝』を見ました。

オスマントルコは13世紀末に興り、1922年まで続いたイスラムの大帝国で、最盛期は西アジア、エジプト、バルカン半島を領有していました。ドラマの舞台は、その最盛期のスレイマン1世(1520~1566)の時代で、ルターの宗教改革直後のカトリックのヨーロッパと対峙しています。

1回90分から150分の番組が139回。その半分ほどを見て、完視聴はあきらめました。でも、気づいたことがあります。日本の大河ドラマとトルコの大河ドラマでは、登場人物の描き方が違うのです。

まず、『オスマントルコ』は、中心人物に感情移入できるようには作られていません。私は、主人公の気持ちに寄り添って視聴する癖がついているので、最初は戸惑いました。誰が主人公なのかさえ、わからないほどでした。

今年のNHK大河『麒麟が来る』は、主人公・明智光秀が「善人」として描かれ、自然に感情移入できるように制作されています。また光秀の周りには「善人」が多く、好感が持てるようになっています。

ところが『オスマントルコ』では、中心人物の皇帝スレイマンも、皇妃ヒュッレム(主人公らしい)も、周囲の登場人物も、いわば人間の罪の性質丸出しです。共感できる「善人」がほとんどいないのです。ヒュッレムはロシア系の正教の司祭の娘でしたが、奴隷となってスレイマンのハーレムに売られ、寵愛を受けて5人の子をもうけ、宮廷で多数を敵に回して孤軍奮闘し、権謀術数でついには帝国の政治をも動かすようになります。元はキリスト教徒だったので好感が持てると思ったのですが、野望のためには何をしても恥じない姿についていけませんでした。

性善説と主人公視点で描かれる日本の大河ドラマに馴染んでいると、性悪説と多人物視点で展開する『オスマントルコ』は途中で苦しくなります。ほろっと感動させる場面があればまたちがうのですが、それもないのです。

どんなドラマにせよ、人間の罪をリアルに突きつけても、悔い改めと、愛と義の勝利がないドラマは本当にしんどいです。