一つであること

マルコ2章その他に、中風の人の癒しの話があります。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」という主イエスのご質問に、私も悩んだことがあります。でも主はパリサイ人に正解を求められたのでしょうか。

最近になって思うのは、これらは一つのことだ、ということです。罪が赦されることと、寝床から解放され起き上がることは、二つに分けようがないのです。

「罪が赦される」ところから神の国は始まります。神の国で起こる目に見えること(ここでは癒し)は、すべて見えない罪の赦しに繋がる一つのことです。

私たちには、その一つであるものを、わざわざ部分に切り分けて理解しようとする、悪い癖があるように思います。つまり単純なものを、敢えて複雑にして考えたがる癖です。主イエスはそこを突いておられるのではないでしょうか。

 神のご計画の中心である「回復」は、一つであったものがバラバラになってしまっているのを、再び一つに戻すことだとも言えます。すべてがとても良いとされた創造の時、神と被造物、また被造物同士も一つでした。罪が入った途端に、被造物は果てのない分裂へと向かいます。サタンは、分裂をもたらすからです。けれど、罪が赦されることで再び被造物は一つになろうとするのです。神のご支配の下に戻るからです。

 イスラエルと一言で言うけれど、ヤコブの時代から12部族間には軋轢があり、後のダビデ王国も南北に分裂してしまいます。神はまず、そんな歴史を辿ったイスラエルが一つになることを願われました。これは、現代のイスラエルも背負っている大きな課題だと思います。  そして私たちは、自分たちにも、この課題が課せられていると知ります。私たちも様々な分裂の中で苦しんでいるからです。一つのものを敢えて切り離したがる罪の性質を承知しつつ、一つであることに向かう神の国の生き方に馴染んでいきたいのです。イスラエルと異邦人が一つになるには、その前に両者それぞれが一つになる必要があるからです。(YaK)