真の安心感

先日、某牧師がご自分は心配性だと言われていましたが、かく言う私も心配性です。それもかなりの筋金入り。子供の頃から、先を予想(妄想)しては、起こりうる問題に不安を感じ、どうしたらよいかを考えて、できる限りの準備(苦笑いエピソードは多々)をしました。いつも不安にとらわれて、なんとかしようと四苦八苦でした。あまりの想像力に母は、これもある意味才能だと笑っていたのを覚えています。

ですが、いくら準備したつもりでも、人生には何が起こるかわかりません。予想しないことが勃発します。そんなことが続いたとき、私は自分の愚かさに失望し、自分により頼んで生きることの虚しさ、危うさを知り、主の前にひれ伏しました。そして、全知全能の力で世を治めておられる主に、自分の人生の主となっていただきました。

未信者の方に神さまのことを伝えるのに、信仰を持つ前と後で、何が大きく変わったかを話すことがあります。その一つが心の平安です。以前は、起こりうる問題に対応できるよう準備ばかりして、今を楽しむよりも先のことばかりに気持ちがいっていました。出エジプト後の荒野にいたら、その日のマナを味わうより、先の分まで集め、仮に集められても、なお先を心配するというタイプでした。

ですが、私たちを誰よりもご存じで、必要を満たし、最善をなしてくださる神さまを信じてからは、徐々に変わっていきました。予想し、備えることは大切ですし、それは性格上変わりません。ただ、極端ではなくなったのです。そして、安心感は、準備したからだけではなく、「主が共におられる」という確信から来ます。不確かで、不安定なこの世で生きていける真の安心感です。

神なしで将来を見るなら不安になりますが、神ありきで将来を見るなら、不安を超えて期待が沸き起こります。この性格を嫌だなぁと思ったこともありました。でも、心配性だからこそ味わえている主の恵みです。感謝。 イザヤ41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(江口知子)