平安のない家

荒川修作という建築家、芸術家がいます。岐阜県には、彼(とその妻)の作品でもある「養老天命反転地」という広大な公園があり、そして三鷹市には東八道路からも見え派手な外観が目を引く「養老天命反転住宅」という建築物があります。

公園も住宅も、凹凸や斜面、障害物があったり、平らで普通といえる場所は殆どなく、体は絶えず刺激にさらされるそうです。彼の目指すところは、遊びながら鍛え、強靭な肉体と精神を作ること、究極の目的は「死なない体をつくる」「永遠の命を手に入れる」ことでした。「人はいつか死ぬ」という宿命をひっくり返す試み、という意味の「天命反転」。便利で快適な暮らしや、ユニバーサルデザインというものへのアンチテーゼ。しかし、彼は73歳で、そして妻もその4年後にこの世を去りました。皮肉にも、永遠の命を目指した試みで、永遠の命は手に入れられないことを証明してしまいました。

 「いのちを救おうと思う者はそれを失い」「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら何の得がありましょう」というマタイ16章を思い浮かべずにはいられませんでした。しかし、彼が幼い頃から、死への恐怖に囚われていたという事実に哀しさも覚えました。

 絶えず緊張感がある家より、体が休まる家の方が長生きするのではないか…とも思うのは私だけでしょうか。平坦で安らげる場所がない家は、たまに遊びに行くのは楽しそうだけど、長く住むのはしんどそうだな…と。私は、陽当たりが良くて穏やかな暮らしができそうな家に惹かれますが、荒川修作は普通の家に住んだ時「なんてつまらない」と思ったそうなので、趣味が合わなそうです。

 彼がもし、永遠の命が聖書の中にあると知ったら、強烈な伝道者になっていただろうか、それともやはり肉体の死を免れる方法を考え続けたのだろうか…と勝手にあれこれ想像しました。

肉の命が永遠に続くことよりも、魂が神様の家でいつまでも憩えることは、何よりも平安で喜びです。生きているうちに、この変わることのない平安をもっと伝えていかなければと思わされます。(津山祐子)