ムダ毛の生き様

硬いネジと格闘していたら、指の爪先がほんの2ミリ程欠けてしまいました。ちょっとした深爪のようなもので、大したことないと思っていたのですが、これがなかなかに不便!小さいものをつまもうとした時、指先で何かを開けようとした時、うまく出来ないのです。ある程度の爪の長さがあることで、指先を器用に使えて、指にもちゃんと力が入るのだということを改めて感じたのでした。   

クリスチャンなら一度は「自分はキリストの体のどの部分だろう」と考えたことがあるのではありませんか。私は、口や手や足などとんでもない、爪の先っぽくらいか、などと考えたことがありますが、爪のほんの先っぽですら、なくては困る存在なのだと思わされました。つい目立つ部位や器官を見て卑屈になってしまいがちですが、優劣をつけるものではないと知った今はとても楽です。

さて、ムダ毛と呼ばれる毛があります。電車に乗れば「なくすべき存在」とする広告がやたら目につきます。おかげで「あると厄介」「なくて良い存在」と刷り込まれているのではないでしょうか。

でも神様は、なくても良いものを人間の体に備えられたのでしょうか?気になったのでムダ毛と呼ばれる毛の役割について調べてみました。それらは「体温を保つ、外からの刺激から守る、毛穴の奥の皮脂腺からは天然の脂が出て皮膚をバリアする役割を果たしてくれる」「毛が多く生えている場所には、リンパ節や太い血管、大切な臓器がある」と。なるほど、確かにそうです。そして、抜いたり剃ったりしても、奴ら(敵視してる訳ではありません)はすぐに生えてきます。毛根から抜いたと思ったのに、いつの間にか、おる!並々ならぬ生命力、しぶとさ。

しかし、ふと気付いたのです。このムダ毛のような生き様こそ、キリスト者のあるべき姿なのではないかと。迫害され、打ちのめされ、消えたと思っても、根っこが丈夫なので、また立ち上がり、飄々と生き続ける。誰に何と言われようが、生き様は変えない。人間の目で見て「ムダ」というヘレニズム的考えに毒されず、堂々と「キリストのスネ毛になりたいです」など言いたいものです。(津山祐子)