「時」を待つ

我が家の幼虫の話(5月22日)の続きです。

蛹室(ようしつ)(さなぎになる部屋)を作った謎の幼虫4匹。最後の土替えの時を逃し、無事にさなぎになれるかが気になって仕方がない私は、息子以上に飼育ケースを日々チェックしていました。ケースを持ち上げて、横から下から幼虫の姿を見ていると、その振動や光、視線?に幼虫が落ちつかなげに動きました。幼虫がさなぎになる前の時期はデリケートな時期なので、とにかく刺激を与えないことが重要です。それなのに、幼虫の様子がどうしても知りたくて、刺激を与えてしまいました。過度に知りたがるのも、時と場合によって良し悪しだと気づきました。

未信者の家族、友人に信仰関連の本を渡したり、福音を伝えたりした後、何を感じたか、相手の心の内を知りたくなりませんか。礼拝や集会に一緒に出席した時もそうです。神さまがどのようにその方に働いてくださっているかを確かめたいと思うのです。でも、私は知ろうとして、かえって相手の心を閉じさせたことがあります。

神さまの愛に出会うのにも、信仰を持つのにも、主が定めた時があります。福音を伝えたら、あとは祈り、その時を期待と忍耐をもって待つのです。ヘブル人への手紙はこう語ります。「あなたがたが神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(10:36)と。愛も信仰も、人間側で揺り起こし、かき立てることで生じるのではありません。神さまは、私たちの見えないところ、知らないところで働いてくださいます。その主に信頼して、どう関わるかを見極めればいいのです。

その後、飼育ケースをそっとしておき、時が過ぎて6月中旬ごろから、順々に成虫が土の上に姿を見せました。時が来たのです!立派なかぶとむしの雄が3匹、パワフルな雌が1匹。神さまの憐れみと創造の御業に感動、感謝です。虫が大の苦手な私が幼虫から成虫になるまでの過程をこんなに喜びと感動を持って見守るとは思いもしませんでした。

息子は、今度は産卵したところから育てたい!と言いますが、さて、どうなるでしょうか。(江口知子)