時が良くても悪くても

昨年末、心に残った出来事が二つありました。

一つは、書道の恩師であるF先生が亡くなったことです。先生は、書だけではなく、「どうしようかと思った」と後に述懐されるほどの負けず嫌いだった私の心をも、温かく見守り育ててくださいました。

私の腕前は趣味の範囲ですが、書の楽しさ、書に思いを込める喜びを教わったことは小さなことではありませんでした。手紙を書くことが好きになり、受洗してからは、どうか神様の愛が伝わるようにと願いつつ、筆をとるようになりました。また、福音のために書くことは、文字によって神様を賛美する喜びとなりました。

近年、先生との交流は年賀状だけになっていました。年賀状にはみことばを添えていましたが、直接お会いして伝えられなかったことが残念です。

もう一つの出来事は、富山県に住む夫の母を、家族で訪問したことです。母は認知症で介護施設に入居しており、コロナの影響もあって、夫以外の家族との面会は4年ぶりでした。

施設に入居するまでは、持病の診察のために年に三度ほど上京し、GCCも数回訪れ、「ここ(教会)、私好きよ」と言ったこともありました。会えない間、娘や私がみことばを添えた手紙やプレゼントを夫に託すこともありましたが、直接福音を伝えたいと願っていました。

娘の発案で年末に家族揃って面会することになり、主に祈り、兄弟姉妹のお祈りにも支えられ、願いが叶ったのでした。用意したのは、賛美「きよしこの夜」です。母は歌が大好きで、面会室に入ると「ん~♬」と何かの歌をハミングし始めました。そして、娘と息子と私が賛美し始めると、何と、母も何フレーズかを歌ったのです。主が背中を押してくださり、短く福音を伝えることもできました。

今年の年間聖句は大宣教命令です。主は、私たちの差し出す僅かなものを用いて、祝福を広げてくださいます。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4:2)。             

(松田智子)