イエスさまの墓の石ー復活の力

マルコの福音書16章です。イエスさまは十字架に架かられ、墓に納められ、安息日が終わり、週の初めになりました。マグダラのマリヤなどの女性たちは、イエスの死体に油を塗りに行こうと思い、香料を買って墓に向かいます。そのとき彼女たちの心を何が占めていたのでしょうか。イエスさまが多くの苦しみを受け、世から取り去られたことの悲しみ。そして、それでも、死んだ後にでも、何か必要なことをしてあげたい。

ただ、女性たちには気になることがありました。「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」(3節)。墓穴には、大きな石が転がしかけてあり、また封印をして番兵まで立ててあったからです。みんな、石のことを心配しながら、墓へと歩みを進めます。私たちに動かせるだろうか。動かせたとしても、番兵が許してくれるだろうか。封印を破壊してまで開けさせてもらえるだろうか。手には香料、そして心には、石の気がかりがありました。

しかし墓についてみると、「あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」(4節)。そして、墓の中に入ると、そこにはイエスさまの体はなく、真っ白な長い衣をまとった青年が座っていました。そして、イエスさまがよみがえられたことを告げます。

女たちがみな心配していたあの「石」は、まったく問題ではなくなっていました。イエスの復活にともなって軽々とぶっとばされていた。よみがえりを前にして、あらゆる障壁、妨げ、心配ごとには、力がないということです。死に打ち勝たれ、すべての罪を背負ってご自分の存在とともに投げ捨ててくださったイエスさまには、それらをはるかにはるかに凌ぐ力があるからです。

復活の朝、よみがえりの主イエスに希望を置きたい。私たちそれぞれに「石」があるかもしれません。開かないように見える扉。御心に進むのを阻む妨げ。さまざまな心配ごと。それは、イエスの復活の前には、全く力がないのです。この希望を、十字架につけた張本人である私たちに与えようと、まず思ってくださった主に、感謝します。(新田優子)