野鴨

数年前、NASAが大気の流れを調査するために野鴨(ノガモ)をニュージーランドから放つと、なんと7日間と7時間の空の旅をして、1万200km離れたヤールー川(中国と北朝鮮の国境を流れる鴨緑江)にたどり着きました。その間、野鴨は一度も羽を休めることなく、またえさを食べることもありませんでした。
 着いた先には、ひとりの善良な中国の老人がいて、野鴨の偉大な能力に感動し、その長旅の労をねぎらうがごとく、えさをまいてくれました。その日以降、野鴨はえさを得る苦労がなくなりました。風光明媚な所でもあり、野鴨はいつしかそこに住み着いて、季節が変わっても次の餌場を求めて飛び立つことはなくなりました。渡り鳥を廃業したのです。
 ある年、野鴨には予期せぬことが起こりました。あの老人が死んだのです。突然えさにありつけなくなりました。しかし、野鴨はすでに野性の力を失っていました。その春、雪解け水が山から激しい勢いで水辺を襲いました。他の鳥たちは飛び上がって逃げましたが、その野鴨だけは飛ぼうとしても飛び立てず、濁流に飲み込まれてしまいました。人間の善意に飼いならされて、野鴨は本来の途轍もない能力を損なってしまったのです。
 本来、信仰には途轍もない力があります。主イエスは言われました。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」(ルカ17:6)。罪人は本来の霊の力を失い、この世に飼いならされた罪の奴隷、いわば野性の能力を失った「野鴨」のようなものです。しかし、信仰は本来の「野性性」、つまり霊性(神とのつながり)を回復させ、「山をも動かす力」を発揮させるのです。
私たちに「からし種ほどの信仰」があるなら、「私の能力では到底できないことを、主の御名のために成し遂げさせてください」と祈ってもいいのではありませんか。