憎悪と怒りが広がる世界で(下)

今の時代は、人々の怒りや不満を救い上げ、代弁してくれる人物を求めています。逆に言えば、民衆の怒りや不満をうまく利用し、彼らを煽動する政治家が出てきやすいということです。ヒトラーが登場した第一次世界大戦後のドイツ社会に似てきているといわれます。ヒトラーは、最初から独裁者として出現したわけではなく、選挙を通して国民の支持を獲得して「総統」になったのだということを忘れてはなりません。
「政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める」(コトバンク)人のことをポピュリストといいます。確かに、一般庶民の常識的な感覚を動員して、時の政権や官僚機構、エリート、特権階級や大企業などの腐敗や不正を正すこともあります。しかし、ただの大衆迎合主義、衆愚政治になる危険性もあります。政治に限らず、こうしたポピュリスト全盛の時代に生きていることを忘れてはなりません。
それとは反対に、30年後、50年後の未来を見据えたビジョンを掲げ、その成就のために、今は忍耐し、黙々と努力しようと呼びかける政治家は人気がありません。国家が抱えている大問題を解決するために、「今は冷や飯を食って我慢しよう」と国民に訴える指導者も喜ばれません(日本は1千兆円もの借金があるのに)。国民の多くは、苦しいこと、痛いこと、面倒なことは嫌なのです。今はいけるところまで安楽、快楽、平穏を楽しんで、そのツケは将来に先送りし、自分の生きている時代に破綻、破壊、大崩壊が起きさえしなければいいと考える「ヒゼキヤ病」が蔓延しています。本当にこれでいいのかと疑います。
私たちは、4千年前のアブラハムの祝福と、そして2千年前、キリストが十字架の苦しみで残してくださった永遠のいのちの恵みで生きています。この祝福と恵みがあるなら、将来達成したい夢のために、「身を切る痛み」や「冷や飯を食う辛さ」に耐えることは割と楽になると思います。不満や怒りのはけ口を求める人々というのは、実は、キリストを求めているのです。