信仰と行いは一つ

本来、信仰と行いは切り離すことができません。「やればわかる」。行動すれば、そのうちに理解できるようになる。それがイスラエルの信仰です。主のことばを受け取り、主の御心であると知ったならば、自分の頭が納得する前に行動するのです。行動しながら信仰を働かせ、あるいは考え、修正していきます。
アブラハムはイスラエルの信仰の父です。主のことばを聞くと、信仰によって即行動しました。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(ヘブル 11:8)。「全焼のいけにえとして(独り子の)イサクをささげなさい」と主に命じられたときも、「翌朝早く、」イサクを連れて出かけました(創世記22章)。聖書は、アブラハムの忠実な信仰と行動を称賛しています。
 そんなアブラハムも、信仰ではなく、人間の考えで行動して失敗したことがあります。その一つが、妻サラに勧められて奴隷女ハガルとの間にイシュマエルをもうけたことです。しかし、あとでは主の指示に従い、「翌朝早く、」ハガルとイシュマエルを去らせています。
 「条件がそろったら決断する」と言っている人は、まず決断しません。決断し行動したら、条件がそろい始めるのです。「納得できたら行動する」と理屈をこねる人は、まず行動しません。信仰で主のことばを実践すれば、納得できるようになるのです。
 ツァラアトを患うアラム人ナアマンは、イスラエルの預言者エリシャから「ヨルダン川で七度身を洗いなさい。」と言われて納得できず、自分の理屈を言い立てて怒り、帰ろうとしました。しかし、ナアマンの場合は、従者に諫められて怒りを静め、「神の人の言ったとおりに」しました。そして癒されました。行動したら、エリシャの言ったことが納得できたのです(Ⅱ列王5章)。
 キリストは、生まれつきの盲人の目に、つばきで造った泥を塗って言われました。「シロアムの池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると見えるようになって、帰って行った(ヨハネ9章)。盲人は納得したから池まで行って洗ったのではなく、洗ったら見えるようになり、主の言われたことが納得できたのです。
 「わかったらやる。頭で理解できるまで行動しない」。その姿勢を改めないと知ることができない恵みの世界があります。それが神の国です。