今も罪人?それとも今は義人?

キリストを救い主として信じた今のあなたは義人ですか、それともまだ罪人ですか。「キリストを信じた今も罪を犯すから、自分はまだまだ救われていない」「救われてはいるが、義人には程遠い」と思う方もおられるかもしれません。あるいは、義人とは、信仰だけではなく、罪を犯さず、行いが立派な人と思いこんではいないでしょうか。
 昔、ある著名な牧師が謙遜に「私は罪人の頭です」と豪語されていたので、自分などとても義人とは言えないと思い込んでいました。あの使徒パウロでさえも、「私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモ 1:15)と告白しています。それに倣って、「我こそは罪人の頭なり」と言いたくなります。でも、文脈からすると、「その罪人」とは世の罪人のことであって、クリスチャンを指しているわけではありません。パウロは、イエスをキリストと受け入れていないときの自分を「罪人の頭」と言っているのです。クリスチャンを迫害していたからです。しかし、イエスを信じた後のパウロは、その信仰による義人なのです。
 現にパウロは、ローマ書で、「ひとり(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされる」(5:19)とし、「信仰によって義と認められた私たち」(5:1)と言い、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(8:1 )と断言しています。私たちはキリストによって神と和解し、「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立」てるのです(コロ1:22)。
 キリストを信じた私たちは義人です。確かに今も罪を犯します。それでも、義人とみなされて、神の国の住人です。もし、「自分は義人ではない。情けない罪人だ」というなら、キリストの十字架による罪の赦しと復活は無効だと主張していることになります。それは、謙遜ではなく、傲慢です。
罪を犯さないように戦々恐々として生きるのが信仰ではありません。むしろ義を表わすため、つまり、救われて神の国に生かされている喜びを表現するのが信仰です。義とされた恵みを喜び楽しむとき、ヤコブ書で学んだとおり、「信仰と行いは一つ」になっています。実に、義人には多くの祝福が約束されています。「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ロマ8:37)。