点数を取りに行くな

歌を点数で評価する番組を見ました。AIによる客観的な音程の正確さと、審査委員4人の音楽性の評価で、勝者を決めます。僅差で勝負がつきます。しかし、私たちは点数をつけて歌を聞くわけではなく、自分の感性に合うメロディや歌詞の曲を楽しみます。
 その番組の審査員も点数をつけるのは本意ではないようです。評価にある程度の客観性はあっても、審査員それぞれの好き嫌いがあります。それは数字では表せません。
ある審査員は辛口評価で、審査を受ける人たちをよく泣かせます。「美しく歌おうとするな」「うまく歌わなくていい」「高音を張り上げれば、いい歌なのではない」「ビブラートをかけようとするな。ミルクを温めたら自然に膜ができるように、熱くなれば自然にビブラートが出る」「点数を取りにいくな」。彼の採点はいつも厳しいのです。そのくせ、感動して涙を流し、絶賛したりもします。点数が低くても、将来性を評価して励ますこともします。
ところで、私たちは神さまにどのように評価されるのでしょうか。
キリストは例え話で、けっこう数字で、しかもお金を使って、真理を語られます。タラントやミナ、一万タラントの借金と100デナリの貸付金などです。しかし、数字で人や信仰レベルを評価される場面はありません。私たちも「点数を取りにいく」ような信仰生活はしたくありません。
といって、主の評価は気にしなくていいというわけでもないのです。「よくやった、良い忠実なしもべだ」と認められたいと願います。それはいわば、評価される主の好みと、主の感性に合った生き方をすることでしょう。そのために聖書を学び、主を知ろうとします。それも、自分の理屈に合わせて解釈するのではなく、主の論理(御心)に沿う学び方をします。
ただ、神さまや人に気に入られようとして、「美しい信仰の話を作ろうとするな」「上手に生きようとするな」「点数を取りに行くな」「ただ単に大声で祈るな。魂の呻きから祈れば自ずから叫びとなる」ということです。
神の国の祝福の中にいるのだから、もっと信仰生活を楽しめばいいのです。目指すは、自分の願う通りに生きても、おのずから主の御心にかなっているという人生です。