死に支度はできたか

作家の山本健吉が遠藤周作の家に立ち寄り、「いま小林(評論家の小林秀雄)さんのところからの帰りがけだが、・・・『君、死に支度は出来ましたか』って、そう訊かれたんだよ・・しばらく返事もできなかった・・」と真っ青な顔で言ったという(安岡章太郎『死との対面』光文社)。この四人のうち二人はカトリックでした。 韓国のあるクリスチャン女性作家は、医師から「あと半年の命」と宣告されて覚悟を決め、身辺を整理しました。財産を処分して、半分を自分の教会へ、残りを子供たちに分けるようにし、そして親しい人たちに語るべきことを語り、和解しなければならない人たちとは和解して、平安を得ました。後で医師の宣告は誤りとわかったとき、彼女は怒らず、これを機に死の準備が思い切ってできたことを喜びました。 キリストを信じる者にとって、死はもはや恐ろしいものでも忌まわしいものでもありません。体の死は永遠の生命の通過点です。だからといって、死はどうでもいいものではなく、死に支度は先でいいというものではありません。 死に行く人々が一番心に残るのは、誰かを赦していない、赦したという思いを伝えられないということだといいます(C.ロス『死ぬ瞬間』)。また、愛しているのにそれを伝えられないままで世を去るのも辛いことです。ルターは、「私の心を傷付けた人々をひたすら神のゆえに赦す。私が心を傷つけたすべての人に赦しを請う」と言い残しています。私も、ルターの後半部分は特に同じ思いです。 「死に支度は出来たか」とは、第一に「創造主といのちでつながったか」、つまり、キリストから永遠のいのちを受けたか、という問いかけです。また、「勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した」かと振り返ることです(Ⅱテモテ 4:7)。そして第二に、「隣人とのつながりを正す」、つまり「赦し、赦される」ことです。 年の暮れは、「死に支度」をする時であり、元旦は「新しく生まれる」時です。では、新年、「新しい人」としてお会いしましょう。