子供たちをわたしの所へ来させなさい

小学生の頃(1960年代)、最も恐ろしい病気は日本脳炎でした。致死率が高く、治っても高熱で脳がやられてしまうというので、ウイルスを運ぶ蚊に刺されまいと、夏は必死でした。蚊に刺されてしまったりすると、発症しないかと戦々恐々でした。幸い、田舎の学校でもワクチン接種が実施され、日本脳炎にかかった人は皆無でしたが、今でもあの頃の恐怖は記憶に鮮明です。 私が小学4、5年生のころ、低学年の女の子がジフテリアで亡くなりました。自分もジフテリアにかかるのではないかと不安が、子供たちの間に広がりました。教師が、発症すると喉の奥が白くなると言うので、私など、毎日のように鏡で喉をのぞき込んだものです。 死が怖かったのです。「死んだらどうなるのか」。それは重大問題でした。親や教師にその問いをぶつけました。しかし、「そんなことは、まだ考えなくてもよい」という答えしか返ってきませんでした。大人も、子供にどう答えればいいのか、わからなかったのだと思います。 死を考え、死を恐れ、死について問い始めるのは、早ければ5歳です。子供は子供なりに、存在の危うさ、魂の渇きに答えを求めているのです。しかし、大人は言葉を濁します。「死んだら無だよ」とは、子供には言えないでしょうし。 ルカ18章15-17節に、イエスに触れていただくために、人々が乳飲み子を連れて来る場面があります。弟子たちはそれを叱りました。しかし、主は、「わたしのところに来させなさい」と、乳飲み子たちを呼び寄せられました。主イエスに近づくのに、遅すぎることはあっても、早すぎるという年齢はないのです。 物心がつく前から、幼子を御言葉によって育てることは大切です。幼子は幼子の不安を抱えています。聖書は難しくて、幼子には理解できないのだからと、弟子たちのように、近付く幼子を止めてはならないのです。 大人の気づかないところで子供の魂も渇き、大人の知らないところで主イエスがその魂に触れてくださいます。私たちは、その機会を子供たちに用意すべきです。