つもりでは意味がない

子供がきれいな文字で学習ノートを作り、いろんな色のマーカーで塗って、勉強しているように見えても、成績はいっこうに伸びない。本人は「勉強したつもり」になっているが、実質的な学習にはなっていない。そんな記事が目に留まりました。 こうした実効果のない「つもり」は、学校、家庭、職場、あらゆる生活の場にあふれていると思います。 親は、子供に繰り返し話して聞かせれば、わからせた「つもり」になります。子供は子供でやっている「つもり」でいます。夫も妻も愛している「つもり」でも、愛はいっこうに伝わっていないことがあります。職場でも、多忙なだけで、あるいは机に座っているだけで、仕事をしている「つもり」の人も結構いるでしょう。 もちろん、牧師や教会にもこの「つもり」はあります。海外や国内の「成功した牧師」によるセミナーや特別集会に参加したら、勉強した「つもり」になります。しかし、結局は何も変わらず、また新たなセミナーに出かけることを繰り返します。また、講壇から一所懸命説教すれば、信徒に全て伝わった「つもり」にもなります。 時間や労力やお金をかけたからといって、それだけで意味のある実が結ばれるわけではありません。「したつもり」になって自己満足に陥るなら、むしろ大いなる損失です。 『使徒の働き』に登場するパリサイ派のサウロ(のちのパウロ)は、教会を迫害することで、神に仕えている「つもり」になっていました。一所懸命、的外れで破壊的なことをしていたのです。しかし、イエスと出会ったのちは、パウロは「空を打つような拳闘」(Iコリ9:26)はしていないと言っています。自分が努力し苦労したことは無意味ではなかったと誇れる、とも語っています(ピリピ2:16)。  世は「断捨離」ばやりですが、私たちは自分の生活を省み、的外れな「つもり」(ガンバリ)をこそ断捨離(ダンシャリ)しませんか。「つもり」(ガンバリ)によって遮断されていた主の恵みが、開かれてくるかもしれません。