見つめて離れない

「しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。」(ヤコブ1:25共同訳2018)  私たちは、自分の顔を鏡に映して見ていても、離れると、どんな顔であったか忘れてしまいます(24節)。自分の顔でさえ、はっきりと覚えて、正確に描き出すということはできません。明確に思い出すためには、鏡なり写真なりを見つめているほかありません。  そのように、神の言葉を「一心に見つめて離れるな」と、ヤコブは言うのです。「完全な律法」「自由の律法」の「律法」とは、ギリシャ語本文では「ノモス」ですが、ヘブライ語訳では「トーラー」です。トーラーとは、「主の教え」のことです。詩篇1篇2節に「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」と歌われていますが、その「教え」も原語はトーラーです。つまり、ヤコブが言う「自由の律法」のことです。  したがって、「一心に見つめて離れない」とは、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」と言っていいかと思います。そうすることで、「主の教え」を「忘れてしまう」ことがなくなり、自ずから「行う人」になる、とヤコブは言うのです。詩篇1篇3節のとおり、「水路の側に植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える」ことになるのです。 ところで、大切なのは、主の教えを「喜び」「口ずさむ」ことであって、「実践しなければならない」という観念に縛られることではありません。その観念に縛られると、たいてい喜びが失われ、「自分はダメなクリスチャン」と嘆き、一方では、他のクリスチャンに批判的になってしまいます。  「一心に見つめる」ために、GCCは各年代に合わせたハニーノート、デボーションノートを用意し、「エクレシア」を開いています。子供がケーキを「一心に見つめて」いれば、食べずにはいられないように、主の教えも「一心に見つめて」いれば食べずにはいられなくなります。