生き生きとした目

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(Ⅱコリ5:21)。「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ 1:7)。
私たちは、自分の罪を全部キリストに着せ、一方、キリストからは「永遠のいのち」を無償でいただいて暮らしています。もともとは「死刑囚」だったのに、今は無罪とみなされて釈放され、堂々と生きているのです。それこそが神の恵みです。しかし、その恵みの大きさと意味を、忘れがちではないでしょうか。
「志ネットワーク活動・青年塾」という活動があります。その主宰者である上甲晃という人の話です。彼は、大手電機会社の社員だったころ、20年間、バングラデッシュに毎年出張していました。バングラデッシュは、一人当たりのGDPが世界の平均の1割以下という貧困国です。しかし、彼が訪問したダッカ大学の学生たちの目は生き生きしていました。彼らはどの授業も、競うように前の席から座っていきます。後ろのほうから埋まり始める日本とは違っていました。彼らはバングラデッシュでも選ばれた若者ではありますが、彼らの親たちは貧しい中からやりくりし、また他の兄弟姉妹たちにはがまんしてもらって、授業料を捻出していました。大学生活はその犠牲の上にあると知っているので、家族の思いに応えようと、貪欲に学んでいたのです。今がどうであれ、若い世代が目を生き生きしているなら、新しい時代が興るといいます。バングラデッシュもその途上にあります。
私たち教会は、キリストの忍耐と犠牲の上に立っています。この大いなる恵みを知っているのですから、目を輝かせて主に仕え、貪欲に御言葉を学び、先を競って主を礼拝していいと思います。そして、子どもや若い世代に限らず、中高年も生き生きとしているなら、教会にはやがて驚くようなことを目撃することになると信じます。