怒りは愛も義も実現しない

生まれつき性格の穏やかな人は、本当に幸いだ。人生の大きなハンディを一つ免除されている、と思う。感情的に激しやすい血筋を引いている者からすれば、羨ましいかぎりだ。怒りは損だ。その血筋のために、何度自己嫌悪に陥ったことか。

「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている」(箴言12・16、29・11)「愚かな者は怒りやすくて自信が強い。・・怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す」(14・16、29)。アーメンというほかない。

怒りは破壊的だ。何かを建て上げ、益となることははまずない。一生懸命に築いてきたものを、一瞬のうちに壊す。「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ」(詩37・8)。怒りは、憎しみ、傷、悲しみを残し、怒りと争いを連鎖させる。「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす」(箴言15・1)。「怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す」(29・22)。まことに、「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」(Iテモテ2・8)である。

確かに、パウロのように神の聖や義が冒涜されたら怒るべきである。しかし、パリサイ人のように人の義のために怒ってはならない。また、穏やかな人が神の義のために怒るのは、まさに「義の怒り」である。しかし、日頃から怒りっぽい人が同じように怒っても、「またか」と思われる。「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコブ1・19、20)。

また、「(愛は)怒らず、人のした悪を思わず・・」(Iコリ13・5)とある。怒ったら愛がないとは必ずしも言えないが、怒らないことは愛の表現である。

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4・26)。たとえ愛と義から出た怒りだとしても、激情は一日で終えるべきである。
怒りを抑える心理学的テクニックがある。それを用いるのもよかろう。しかし、神の言葉と聖霊による訓練を受け、内側から変えられたい。