岐阜の女子短大生、京都産業大生、水戸市の高校野球部監督らが、イタリア・フィレンツェにある大聖堂の壁に落書きしたことがニュースになってから、国内でも、和歌山県の名勝地の岩、鳥取砂丘「馬の背」など、落書きが各地で問題化しています。
コラムニストの勝谷誠彦さんは、「『そこに行った』という達成感を得ることだけが目的になっている。その達成感を表したいから、落書きという安易な方法をとる。実名まで書いてしまうのは自己愛の暴走。自分を『世界に1つだけの花』と思いこむ人間が増えて、そこに自分という存在が残ったと勘違いしてしまう」とコメントしています。
私は、安易に落書きするもう一つの原因は、歴史や自然と向かい合う真摯さの欠如だと思います。落書きする人にとって、歴史的遺物や自然はそんなに重要ではないのです。そこから何かを見よう、聞こう、学ぼう、知ろうという姿勢はありません。
子供の頃、授業中、教科書などに落書きしたことはありませんか。その教科に真剣であれば、そんなことしなかったでしょう。1989年、朝日新聞が、沖縄・西表島の珊瑚に「K・Y」という落書きを発見し、「80年代の日本人の記念碑になるに違いない百年年単位で育ってきたものを、瞬時に傷つけて恥じない、精神の貧しさ、すさんだ心。一体K・Yって誰だ」と報道しましたが、落書き犯人は朝日の記者自身でした。自然への敬意が本物なら、スクープ欲しさぐらいで、そんなことはしなかったでしょう。人は真剣に向かい合っている物には、落書きはしないのです(聖書に落書きしないでしょ)。
話は飛躍するようですが、私たちは、自分の人生に対する真摯さ、命の尊厳に対する真剣さを失えば、人生そのものを「落書き」にしてしまいかねません。つまり、自分の存在意味や目的を真剣に考えず、ただ刹那的に生きているだけなら、日常の営み自体が「一応、ここに存在していた」という程度の「落書き」に過ぎなくなってしまいます。決して大げさなことではありません。聖書は、そういう生き方を「空の空」と言っています(伝道者の書)。
創造主と向かい合い、自分の人生と使命を真剣に考えましょう。これでいいなどと言わず、真摯に生きましょう。けっして落書きのような人生にしてはなりません。