信号のない交差点

 8年前、オランダの市場町オーステルヴォルデの交差点は、信号機、標識、歩道と車道の境界の柵が取り払われ、歩行者、自転車、自動車、バスが無秩序に交じり合うようになった。毎日4500台の車が、互いに相手の目を見ながら、周囲の状況を観察して通り抜ける。最初は誰もが戸惑ったが、以来、けがを伴う事故はゼロ。同じような試みが欧州の各所で行われ、交通安全と車の流れが改善された(JAF Mate06/8月号)。

 従来の方式は、車と歩行者を分離し、人とルールの関係で通交がなされるものです。しかしこの方式は、いわばドライバーや歩行者という人と人との関係が中心で成り立たっています。互いを認め合い、譲り合い、相手を守り、自分を守るのです。ですから、ルールが示されていなくても、結果的にルールを守っていることになります。思いやり(愛)はルールを成就するのです。

 しかし、この方式がどこでも可能なわけではありません。以前、古代に栄えたある国の首都でタクシーに乗った時のこと、片道3車線はあろうかと思われる交差点で動きがとれなくなりました。信号機も標識も車線のラインもありません。車や荷馬車や自転車が四方から我先にと突入し、「どけろ、どけろ」とクラクションを激しく鳴らしながら、すり抜けるのです。何度も接触を繰り返しましたが、運転手は驚く私に「ノープラブレム」と微笑むだけでした。これでは、ルールが要ります。おそらく今はそうなっているでしょう。

 キリストの十字架は、私たちを律法(ルール)の縄目から解放します。「真理はあなたガを自由にする」(ヨハネ8・32)のです。謙遜、忍耐と寛容、親切、善意、柔和、自制などの実が結ばれている所では、ルールは少なくて済みます。主の霊を受け、御言葉を慕う交わりには、律法は不要です。それを実現するために、日々主の前に出て、学び祈りましょう。