「神の愚かさは人よりも賢い」(ロゴス201003)

この65年間、日本は戦渦に巻き込まれることなく、平和と繁栄を謳歌してきました。努力と正直が比較的報われやすく、勤勉でありさえすれば、誰にでも高等教育と職業の機会が開かれた時代でした。一時期は、中流階級意識を持つ人が80%にも達したこともありました。何を言っても何をしてもいい自由な世の中でした。そして、今は物憂く、けだるく、虚無的で、思考停止しても、なんとなく生きていられる時代です。いろんなものが混じり合い、中和して、生温く、停滞し、躍動感がなくなっているように思います。
そんな時代の空気に、日本の教会もクリスチャンも馴染んできました。いや、自由で平等で平和で豊かで、迫害もない社会の風潮に飼いならされて、同じように生温く、停滞してしまっていると言っていいかもしれません。日本の約8千ある教会で、05年度洗礼者ゼロの教会が65%、教職者の64%が60歳以上だそうです(ISC調べ)。ただでさえ少ないクリスチャンが、社会に対し影響力を持つことは期待できない状態です。

さて、こうした停滞した時代にあると、人は、人間的な起爆剤に頼り、即結果を求めたがるものです。しかし、大切なのは、やはり聖書の原則に立ち返ることです。愚鈍で遠回りなようであっても、神の言葉に従うべきです。
ここでは、その原則の一つとして、次の言葉を取り上げます。そして、この原則に逆行する二つの問題を取り上げたいと思います。

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(Iコリント1・27〜29)。

■愚かになることを恐れない
33歳で牧師になって間もない頃、ある女学生からこんな疑問を呈されました。
「牧師や伝道者は、いい大学を出て頭のいい人たちがほとんどではありませんか。神の愛、キリストの十字架の恵み、聖霊の力で人は変えられるのだといいながら、結局、日本のキリスト教伝道は、学歴と知識と能力の高さでなされているのではありませんか」。

聖書の原則とは異なるのではないか、ということです。
実際、神に選ばれ用いられた聖書中の人物は、コリント書のこの言葉が当てはまるような人たちでした。アブラハム、モーセ、ダビデにしろ、士師たち、預言者たちにしろ、特別人間的な能力に秀でていたかは問題にされず、主に忠実であったか、信仰を発揮したかどうかが問われています。また、キリストが選ばれた弟子たちも「無学な普通の人」(使徒4・13)たちでした。確かに、コリント人への手紙を書いたパウロ自身は、学歴と知識と能力の高い人でした。しかし、そうした肉に属するものを「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ3・8)といい、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6・14)と宣言しています。パウロの宣教は、「説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした」(2・4)。

しかし、残念ながら、この女学生の批判のとおり、日本では高学歴の牧師たちが主流で、「説得力のある知恵のことば」で説教をしています。聖書の言葉を文法に沿って解読、分析し、抽象化、概念化、普遍化し、自分の頭で理解し、きちんと定義された「知恵のことば」で、論理立てて表現し、人にも言葉の理屈で説得でき、相手も「知恵のことば」で納得できれば、それでほぼ福音伝道完了となります。そして、伝えた相手がそれを自分自身の言葉で順序だてて表現できたとき、「信じた」「告白した」「救われた」となるのです。

私たち牧師のほとんどは、欧米流の神学で教育され、欧米の方法論で訓練されてきました。そして、アメリカのプラグマティズムの大きな影響を受け、結果を出すために一所懸命です。西洋合理主義の神学だけに凝り固まって、それがすべてであるかのように、その枠の中だけでしか物が考えられない状態になっているのだろうと思います。西洋合理主義の神学は、ある地域のある期間に限定された神学に過ぎないのですが、その価値観を絶対的基準にしているので、息が詰まりそうな説教になります。そんな人間が作った「枠」や「基準」など、半世紀後にはどうなっているかわからないのですが。
少し考えてみてください。聖書論、救済論、神論、キリスト論、三位一体論・・・などを理屈で全部説明できたところで、異端を排除する以外に、一般の人や信徒にどんな力を与えるのでしょか。神学者や牧師を高慢にする以外に、その人格や生活に大きく影響を与えているとは到底思えません。

でも、「知的である。論理的である」と評価されることを喜ぶ牧師が多いのです。ある知性派を自称する牧師などは、その著書の中で、「知性的ではない福音派の牧師のように、自分をクリスチャンとは呼びたくない。私はキリスト者だ」と、わけのわからないことをのたまわれています。学術的な表現、典拠が明確、引用が一字一句正確、論理的一貫性を金科玉条のようにも言います。福音を伝えるだけなのに、言葉に裃を着せたがるのです。そんなに「愚かだ」といわれるのが嫌なのでしょうか。どうして自分の方が神よりも賢いという態度をとるのでしょうか。

この欧米流の合理主義神学に凝り固まった牧師や知性重視の信徒が、信仰を言葉の世界の遊びにしてしまっていることが、クリスチャンが影響力を失っている原因の一つであろうと思います。神の言葉を「生きたまま」伝えていないでいるのです。

神の言葉を実践しようと、組織を結成し、社会のただなかに出て行って、政治運動、社会運動、文化運動を行う人たちもいます。しかし、政治や社会を言葉で批判し、理屈に乗っかった組織運動をし、主義主張を唱えるのは、合理主義神学の理屈の延長線上にあるものにすぎません。その社会運動自体が、実に賢く、知性派的なのです。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Iコリント1・18)。これがパウロの宣教方法でした。「この世の知者」であることを止め、この世の人々の前に「愚か」になる覚悟がなければ、十字架の力は発揮されないことでしょう。
誰もが「この世の知者」になることはできませんが、誰でも福音のために「愚か」になることはできます。私たちは、もともと無に等しい者ではありませんか。この世の知識で武装して、理屈で攻めて、賢く見せかける必要などないのです。

まず牧師が、福音のために愚かになることを恐れないこと、神の言葉を「生きたまま」で伝えるようになることが重要なのだと思います。「神の愚かさは人よりも賢い」(Iコリント1・25)ことを本気で信じる牧師が数多く出てくれば、日本のキリスト教会も少しは変わるでしょう。

■この世の強い者を選ばない

二つめの問題点です。
この国のクリスチャンの間で根強い考え方の一つに、社会的に地位の高い人、指導的立場にある人、有名人、知識人がクリスチャンになれば、社会に対し大きなインパクトを与え、クリスチャンになる人が増える、というのがあります。つまり、政治家、経済人、学者、スポーツ選手、芸能人など、もともとよく知られ影響力のある人に伝道すれば、より効果的に福音化が進むというのです。そして、社会は変わると期待されます。そんな発想で、社会的に強い立場や重要なポストにいる人、多くを持てる人だけを専門的に伝道しようというグループもあります。

しかし、そんな発想がキリストにあったでしょうか。あれば、わざわざ名もなく地位もない貧しい大工の息子の立場を選んで、地上には来られなかったでしょう。ヘロデ王に代わる王か、大祭司にでもなられたことでしょう。貧しい人、病人、取税人、遊女などを相手にせず、学者、祭司、金持ち、ローマ総督などを集中的に伝道し、奇跡の数々を見せてやればよかったはずです。そのためには、サタンに誘惑されずとも、さっさと「石をパンに変えられた」ことでしょう。

また、ペテロもパウロら使徒たちも、時の権力者や、ユダヤ教の指導者、学者、金持ちを優先的に選んで伝道するようなことはしてはいません。むしろ、普通の人、弱い者、貧しい者、悲しむ者などを対象にしています。それが、聖書の教える原則だからです。神はこの世で「悪い物を受けた者」を憐れまれるのです(ルカ16・25)。

考えてみてください。ローマ帝国から迫害され、多くの殉教者を出しながらも信仰を守り抜いた時代の教会と、ローマ皇帝がキリスト教を認め、ローマの国教になってからの教会と、どちらが、キリストの教会としての姿を保っていますか。教会の歴史をみれば、人間の権力で、上から庶民をキリスト教に改宗させていくのと、庶民自身の信仰で、下から社会に自ずから浸透していくのと、どちらが望ましいか、明白ではありませんか。

今日、中国では「家の教会」が迫害の中で急成長し、クリスチャンの数は1億ともいわれます。中国に聖書を届ける「いのちの水計画」に携わる人から聞いたことですが、「家の教会」の人たちは、「迫害がなくならないようにと祈らないで欲しい。迫害の中で信仰が守られ、広がるようにと祈って欲しい」と願っているとのことです。共産党の指導者がクリスチャンになり、上からキリスト教の影響力が強まることなど、考えてもいないのです。

韓国は、大統領をはじめ国会議員の百人以上がクリスチャンです。大学の学長、教授、経済人、会社社長、芸能人、スポーツ選手など有名人、知識人、指導者にも数多くのクリスチャンがいます。また世界的に名の知られた牧師も数多く輩出しています。その牧師の一人が、「にもかかわらず、韓国社会の堕落ぶりは世界でも筆頭クラスだ」と嘆いています。かつて下層民を中心にリバイバルが起こり、人口の30%がクリスチャンといわれた韓国も、社会のリーダーがクリスチャンになった今は19%に下がっています。

クリスチャンが社会の中心で活躍するようになるのはいいことです。しかし、高い地位を占める人々をクリスチャンにすれば、社会は変わるという発想は聖書にはありません。社会の指導者、学者、有名人に伝道してクリスチャンにすれば、上からの影響で社会の霊的雰囲気は変わるというのは迷信です。彼らの権力や知力や財力で世を変えようというのでしょうか。それなら、それは神の力ではなく、この世の政治的、経済的、文化的圧力の結果です。神の栄光を現すことにはなりません。たとえ政治家がクリスチャンになっても、常に一信徒として自分の愚かさ、無力さ、弱さの自覚に立つべきです。パウロのように、学歴も能力も業績も「ちりあくた」と本気でいえなければ、クリスチャン政治家でも学者でも使いものになりません。

他の宗教は、この世の力を用いて上から伝道しているかもしれません。それは、「人の賢さ」に依存しているからです。しかし、キリストの福音は「神の愚かさ」により頼んでいます。キリストがなぜ、「普通の無学な人」を弟子にされ、「貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれた」(マタイ4・18)と言われ、弱い者として十字架にかかられたのかを、よく考えるべきです。

自分は「弱い者」と自覚できない者には、福音は伝わりません。主は、「愚かな者」を用いて「この世の知者」を恥じ入らせることがお好きだということを忘れてはなりません。