何を喜びとするか

「囲碁は深淵で、不思議な魅力を持っている」。囲碁の世界に踏み込んだファンから、そんな言葉を聞けるのが嬉しい、と棋士の小川誠子さんが新聞に書いておられました。自分のことを褒めてくれるより、自分が愛している囲碁のことをそのように言ってくれるほうが喜びなのです。自分の囲碁の戦法で、「囲碁の世界って、深いですね」と囲碁を賞賛してもらえたら、彼女にとってこの上もない喜びになることでしょう。

スポーツ選手も同じですね。自分が賞賛されるよりも、そのスポーツの面白さを知ってくれて、その深さを共有してもらえるファンが増えることを願っていると思います。ひいきの選手さえ勝てばいいというファンが増えても、そのスポーツの醍醐味を共有できないのであれば、つまらないでしょう。

自分の愛するものの良さや面白さを人にも分かってもらえて、そのために自分が役に立てることは幸せだと感じる心は、人間として健康だと思います。反対に、自分が脚光浴び、有名になり、自分が賞賛され、得しなければ面白くないという心は、病んでいます。

私たち、主イエス・キリストを愛する者にはなおさらです。私たちは、ただキリストだけが知られ、ほめたたえられ、愛されることを無上の喜びとします。しかし、スポーツや芸術を愛するのとは、まったく質の違う愛仕方です。人の永遠の命がかかっているからです。私たちがキリストによって受けている恵みに、他の人々もあずかってくれたら、どんなに嬉しいことでしょう。そのときには、私たちがどんなに苦労し忍耐したかなど、どうでもいいことになります。私たちは自分のもてる最高のものを捧げることによって、主が称讃されることに貢献することを生きがいとします。

キリストを迎えたときの喜びを、キリストの先駆者で紹介者であるバプテスマのヨハネは、「私もその喜びで満たされているのです・・あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3・29、30)と表現しています。私たちもヨハネに倣いたいと思います。