鎌倉時代、執権北条泰時が定めた「関東御成敗(貞永)式目」(1232)では、窃盗罪の刑罰は極めて軽かったそうです。そのためか戦国時代には群盗がはびこり、大名や民衆を悩ませました。それを厳しい罰で一掃しようとしたのが織田信長でした。なんと、一銭でも盗んだら斬首の刑に処すと定めたのです。現行犯で即その場で斬首ですから、その峻厳さがわかります。豊臣秀吉はこの「一銭切り」を全国規模に拡大し、「太閤の一銭切り」として知られるようになりました。それが後世の日本人の心に、盗みに対する強い嫌悪感と罪悪感を植えつけることになったそうです(山本七兵『日本人とは何か』祥伝社p451)。江戸時代にも厳しい罰のゆえに、現代とは比較にならないほど、窃盗罪は少なかったそうです。
ところで、わずか1銭を盗んで死罪というのは非常に残酷なようですが、実は聖書の聖なる神の掟は、それどころではありません。1銭を盗まなくても、心の中で「盗もう」と考えただけで、罪=死に定められます。「そんな無茶な」と思うでしょう。でも、そう思うのは人間がそれほど罪に汚れているからです。人間の感覚では清くても、神の聖い目には十分汚れています。神には、人間の「聖さの基準」はあまりにも歪んでいるのです。
100%純粋な水の中でウイルスは繁殖できません。しかし、ほんのわずかでも不純物が混じっていれば、生息できるものがいるそうです。99.99%と99.98%には違いがないと言えても、100%と99.999・・・%には大きな違いあるのです。それが、神の聖さです。
どうせ汚れているのだから、多少なら汚れてもいいし、多少のことは赦されるという感覚で生きるのなら、人はどんどん汚れていきます。現代がそうです。しかし、聖書は、神が完全であるように、人間も完全であれと命じられています。それは、一つには、私たちが汚れ、不純、不完全に慣れてしまわないためです。そして、自分の力では純粋、完全になれないことを認め、聖めてくださる方が必要であることを悟らせるためです。あなたの感覚を神に合わせましょう。