塩の奥ゆかしさ

私は野菜サラダに味付けをしません。あるときからドレッシングやマヨネーズを少しずつ減らしていき、食塩をわずかにふりかけるだけにまで進み、ついに何もなしで食べられるようになりました。餃子にも醤油はつけません。もともと具についている塩味で十分です。そして今、チャレンジしようとしてできないでいるのが、寿司や刺身、冷奴に醤油を使わないことです。

ところで、野菜、肉、魚介類などの食材は、塩分なしには、その味が引き出されないものばかりです。他の動物は味付けしません(若干の例外はあるようです)が、人間は塩味なしには、「味ない(丹波方言では、美味しくないの意)」のです。なぜ人間には味付けが必要なのか。動物は生きるために食べていますが、人間は生きるためだけでなく、食材の味を楽しむために食べるからです。そのためには、塩が不可欠です。

塩は自分自身のためには存在しません。自分は溶け込んで、消えて見えなくなって、他者の持ち味を引き出す役割を果たします。塩がその形をとどめていたら、塩本来の特徴がそのまま出て、辛くて食べられません。自分の姿が消えてしまわないと生かされないのです。自分の存在を強調したら、嫌われるのです。

私たちも、人の世にあって塩の役割を果たすことが求められています。それは他者を励まし、生かし、その良さを引き出す役割です。主が、「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう」(マタイ5・13)と言われたとおりです。その役割を果たすためには、自分が消え、キリストが現れなければなりません。主が、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(16・24)と語られたことが、よく理解できます。