故意と不注意

先週のニュースから二つ。

■秋田県は、天皇、皇后の訪問に関する知事名の案内状を、誤表記のまま、上司の決裁を受けずに送付した人事課班長(55)を訓告処分とした。また、管理監督責任を問い、人事課長を厳重注意とした。この班長は市議らに案内状181通を送付したが、このうち21通は、「悪天候などの理由により」が、入力ミスで、「悪天皇…」となっていた(18日)。 

■コンビニの外壁にあるコンセントに無断で携帯電話を約15分間つないで充電したとして、大阪府警松原署が窃盗容疑で、中学2年で14歳だった男子生徒ら2人を地検に書類送検していた。被害額は1円。調べに対し、男子生徒は「携帯電話の電池が切れ、友達からのメールに返信できなくなったので軽い気持ちでやった」と話したという(19日)。 

前者は業務上の過失、後者は被害額1円といえども意図的な犯罪です。

入力ミスはよくすることであり、チェックしても見逃すこともあります。しかし、「不注意でした」ではすまないこともあり、この事件は自分もやってしまいそうな恐ろしさがあります。周囲の人々には、寛容に赦されていることを感謝し、また、自分の弱さを知るがゆえに、人の不注意な過失も赦したいと思います。でも、赦されることを当然と考えてはなりませんし、弁解もできません。

では、後者のような意図的な犯罪とは、私たちクリスチャンは無縁であると言えるでしょうか。私たちも、良い事なのだから、小さな不正なら許されると考えてしまうことはないでしょうか。自分でも気づかずにいる場合もあります。だれも裁けないゆえに、自分で敏感でなければなりません。

私たちが神に仕えるにあたり、意図的反抗はもちろん、不注意も弁解の余地がありません。確かに、そのような恵みと信仰のゆえに罪は赦されます。しかし、「このぐらいは赦されるだろう」と、自分に言い聞かせ、内なる聖霊を欺くことは、どうなのでしょうか。聖霊には恐れを持ちましょう。