名刀正宗

江戸時代、武士は軍人であることを止め、役人になった。武力ではなく、精神と倫理面での模範となり、庶民の上に立つことが期待された。公文書偽造、横領などすれば、現代の役人と処罰とは異なって、死罪である。名誉の切腹さえ許されなかった。

 笛吹明生著『爆笑!大江戸ジョーク集』(中公新書)に、こんな話が紹介されている。

 西国武士が花見に出かけ、酔っ払いにからまれた。道を塞がれ、嘔吐物までかけられた。武士はそれを忍耐し、立ち去ろうとしたが、酔っ払いは「それでも武士か」と大声で追いかけてきて、なおも侮辱する。武士は衆人環視の中で、刀に手をかけた。そして群衆がひるむ一瞬、人垣をすり抜けて逃げおおせた。武士の面目を汚した卑怯者と言われたが、「名刀正宗で人を切れば研ぎに出さねばならない。それが惜しくて逃げた」と弁明した。

 実はこの武士の藩主は、藩士が町人といざこざを起こすのを心配し、「見事な服装、立派な太刀を帯びた者のみに花見を許す」と申し渡していた。で、この武士は名刀正宗を帯びていた。経緯を聞いた藩主は、「伝家の宝刀を差していなければ、一時の感情や面目で、酔っ払いを無礼討ちにしたであろう。それを制した正宗は、まさに名刀である」とご満悦だった。人を切れば名刀を血で汚す。刃こぼれするかもしれない。それゆえ名刀を惜しんだ。普通の刀であったら、切り捨てていた、というわけである。

 クリスチャンの心は普通の心ではない。聖霊を心に差し、聖霊が与えてくださる神の言葉という「名刀」を帯びている(エペソ6・17)。その聖霊様と神の言葉を汚したくはない。汚したくないと思うものを、心と体に帯びていることはいいことだ。聖なるものが、自分をコントロールしてくれる。自分の面目や憤怒の感情で動こうとはしなくなる。私たちは、心に「名刀」を差しているという自覚で生きていこう。