レンタル思想と永遠の命

「レンタル思想」というのがある。

人間は、地球から体の構成物質を借り、活動の道具もエネルギーもすべて借りて使い、最終的にはすべてお返しして死んでいく。自分のものとして所有する必要などない。すべてレンタルなのだ。所有できるという幻想が、人をけちにし、人生を貧相にする。それゆえ、所有しようという貪欲をなくすることが、より良く生きる道である。多くのものを所有したところで、すべて地球に返還しなければならない。そのことを忘れてはならない。

キリストは、「貪欲に注意せよ」と、こんなたとえ話をしておられる(ルカ12章)。
ある金持ちの畑が大豊作になった。彼は大きな倉庫を建てることを計画し、「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と歓喜した。 しかし神は彼に言われた。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか。」  「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない」のだ。

では、私たちが確かに所有できるものはないのか。ある。ただ一つある。それは「永遠のいのち」である。一番所有できそうにもないものが、実は所有できるのだ。どうすればできるのか。極めて単純。ただキリストを信じることによってである。しかも、この「永遠のいのち」を所有すれば、地上に生きている間、体に必要なすべてのものを、神からレンタルできる。豊かな人間関係を楽しむことができる。平安と喜びを満喫できる。そして、この「いのち」は奪われることなく、肉体が死ぬとき地球にお返しする必要もない。

死ぬ身である人間にとって、「どうしても必要なものはただ一つである」(10・42)、と主はわ言われた。その一つが、人間のすべてなのだ。