春の現実

春の兆しが感じられるようになった。ラジオでも、各地のリスナーから「春の音」が寄せられていた。その中にこんなのがあった。「川辺を散歩していると、飛び石にぶつかる流れの音に春を感じた。周囲の山にも春が近づいている。しかし、川を渡って対岸のショッピングセンターに入ると現実に戻された」。穏やかな自然の音が開く心の世界は非現実、人間の喧騒の世界が現実、ということらしい。

 「ええっ、両方とも現実でしょ」と、ラジオにチャチャを入れたくなった。むしろ、「流れの音」がもたらす心の安らぎのほうを、現実として生きたほうがいいのではないか。

 人は現実と理想を対立させ、「現実は厳しい」「それは理想だが、現実は違う」などと言う。目に見えている世界が現実。心の中に開かれる世界は理想だが、幻想と考える。

 聖書はむしろ逆である。目に見えている世界ではなく、それを造った目に見えない神のビジョンこそが、本来の現実だと教える。いま目で見ている世界は、人間の五つの感覚を通して入る情報で構成された、いわば「五感による現実」である。一方、信仰で見る世界は、聖霊を通して確信させられる「神の言葉による現実」である。この「神の現実」は永遠不変であり、いま見えている世界が滅んでも続く現実である。目に見えている世界は「神の現実」に対して何の力も持たない。しかし「神の現実」は、目に見えている世界を造り変えていく力を持つ。

聖書は「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる」(ヘブル11・1)と語る。信仰とは、目に見えない「神の現実」を確信することだ。私たちは、この「神の現実」をこそ主軸にして生きるべきである。目に見えるの現実に押し潰されてはならない。それは、私たちの信仰によって造り変えられていく(11・3)。

春の兆しは、春が来ると信じているからこそ、見つけられるのだ。そして、春が来ることが確実なように、神の現実は目に見える世界に成就していく。