飲酒運転による交通事故が跡を絶たない。どんなに悲劇的な事故が起こっても、どんなにその悲惨さと危険性が繰り返し報道されても、なくならない。罰則も取り締まりも強化された。講習会も各地で行われている。それでも違反は続発する。違反者で目立つのは、公務員、教師、僧侶、未成年だそうで、自分の社会的立場を弁えていないということがわかる。静岡県磐田市では、市職員二人が酒気帯び運転で摘発されたのを契機に、職員全員に飲酒運転はしないという誓約書を提出させた。ところが、その3か月後に、職員の一人が酒気帯び運転で現行犯逮捕され、市長が、記者会見で「これ以上何をすればいいのか」と嘆いたそうだ。
飲酒の問題は、車の運転に限ったことではない。酔った上での破廉恥な行為や暴力事件もそうである。政治家や大学教授、公務員の場合は、ニュースで話題に上るが、似たような隠れた事件は多いことだろう。
酒に甘いのは日本文化の特徴である。社会の体質、日本人の意識が根底から変わらない限り、悲劇は繰り返されるだろう。そうなのだ。どんなに悲惨な事故・事件が起こっても、厳罰化されても、体質や意識が変わらない限り、人間は悲しくも同じことを繰り返す。
ところで、私たちクリスチャンが罪や悪から遠ざかりたいと心から思うようになったのは、神の罰が恐ろしいからではなく、心の質と意識が変わったからだ。私たちの体が、「酒に酔う」のでなく「聖霊に満たされたい」と願うようになったからだ。そのように、キリストによって新しい体質に造り変えられたからだ。
社会の体質が、悲惨な事件や厳罰化や講習では変わらないように、心の質も体験や罰や訓戒や努力では、根底的には変わらない。私たちを根底から変えるのは、罰でも恐怖でも努力でもない。神の言葉であり、聖霊の力である。私たちが伝えたいのは、社会批判、問題分析、訓戒ではなく、人を変える神の言葉である。