明治の負け組

勝ち組、負け組とは嫌な言葉だが、あえて使うなら、主は原則として、謙遜な負け組を用いられる。日本のプロテスタント教会の黎明も、「ある意味で」そうである。

明治維新の勝ち組といえば、おおむね薩長土肥を中心とする下級武士と、朝廷の下級貴族であった。その代表的な人物としては、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視などが挙げられる。一方負け組みは、徳川慶喜をはじめとする幕府側の人々、あるいは没落士族(武士階級)だといえよう。

「西国立志論」の翻訳出版したクリスチャン教育者の中村正直は元幕臣、東京一番町一致教会(現富士見町教会)を設立した牧師植村正久は、徳川家に仕えた最古参の旗本出身、キリスト教伝道者・神学者の内村鑑三は高崎藩士の長男、ミッション系の東京女子大の初代学長や国際連盟事務次官などを務めた教育者新渡戸稲造は盛岡藩士、同志社大学の創立者新島襄は安中藩士であった。そのほかにも、明治期のキリスト教会や教育快で指導的な役割を果たした牧師、伝道者の多くが士族出身である。

元佐倉藩士の津田仙もそうである。彼は青山学院、同志社大学、筑波大学付属盲学校の創立に協力し、キリスト教界の三傑と歌われた人物である。カリフォルニアのリンゴを日本に移植したり、東京市街に街路樹を植え、並木道を造ったことでも知られる(4月24日没後100周年)。

そして、その津田仙の娘が、日本の女性の地位向上のための教育に尽くした津田梅子である。1872(明治4)年、岩倉具視欧米使節団に伴って、5人の女性が米国に留学したが、彼女らの出身は、やはり明治維新の負け組か、それに近い立場だった。梅子は、そのうちの一人で帰国後、津田塾大学を創設した(当教会から最も近い教会)。

主は負け組を用いるのがお好きである。ただし、用いられて勝ち組気分になると、外されてしまう。へりくだることを忘れないでいよう。