首の痛み、肩こり、頭痛、体が揺れていると感じる現象、集中力欠如が気になり、意を決して重い腰を起こし、病院に行った。MRIやレントゲン検査の結果、首の第6関節の軟骨が潰れていることが原因であるとされた。なぜ軟骨が潰れたのか。頭が大きくて重いからだという。長年の負担でそうなったのだ。「カムチャッカからベトナムまで、東アジア地域の民族には『肩凝り』という言葉がある。しかし、頭の小さい欧米にはない。いわば、あなたの症状は人種病ですな」と、その日本人医師は説明した。
ところで、昨今の日本では、「小顔」の人が羨ましがれるという。なるほど、そうか、みんな「肩凝り」に悩んでいるのだ・・・と思いたいところだが、違う。「小顔」は美人、かっこよさの条件なのだ。なぜ、それが条件なのか。欧米人がそうだからだ。なぜ欧米人がそうだと美人の条件になるのか。欧米コンプレックスである。
欧米人は小顔で、目は二重で、掘りが深くて、鼻が高い。足も長い。日本人が初めてヨーロッパ人と出会った頃(16C)は、彼らを赤鬼、毛むくじゃらの南蛮人と言っていたくせに、戦争に負けると途端に、彼らの容姿を美人美男の理想にしてしまった。他民族の容姿を自分たちの美醜の基準にするなんて、まったくばかげている(奴隷根性と言えないか)。
頭の大きいことは善でも悪でも、美で醜でもない。ただ、肩凝りの原因になるので、厄介なだけだ。足が短いこと、肌の色が黒や黄であることは、道徳的に善でも悪でもない。むしろ有利だ。体の特徴や動作などは、価値の基準にしてはならない。私は子供の頃、どもりでからかわれたが、不便であっただけで、悪ではない。不便なのは直すに越したことはない。しかし、直ったからといって、善になったわけではない。
基本的に、善でも悪でもないことは、神が造られた多様性である。身体の不自由でさえ、多様性である。そのことで、他者を見て自分は劣っている、優れていると考えてはならない。主の創造の豊かさを互いに喜び合うべきだと思う(肩凝りから飛躍したかな)。