「感動することを止めてしまった人間は、死んでしまったのも同然である」と、アインシュタインも言ったそうだ。どんなに美しい光景を見ても感動しない、どんなに崇高な話を聞いても感動しない、何に触れても感動しない、というのでは、五感は麻痺しているか、心は眠っている。
人間は感動の生き物だ。五感は、そして心は、感動するためにある。人は、なぜ感動するように造られているのか。それは、自分の創造主なる神と出会うためである。そして、自分の救い主を知るためである。
感動は、永遠のいのちへの扉である。聖書に登場する人物の信仰の生涯は、感動から始まっている。モーセも、ダビデも、ペテロもパウロも、ザアカイもサマリヤの女も、みなそうだ。彼らは、感動で主に従い、信じ、期待し、愛し、さらに感動を巻き起こしていった。そして、人々をその感動の渦に巻き込み、神との出会いを広げていった。
では、感動できなくなった者は、もう神とは出会えないのか。そんなことはない。キリストは、復活の主である。死からいのちをよみがえらせる方である。感動する心もよみがえらせてくださる。取税人マタイも、38年間伏せっていた男も、「美しの門」の足の不自由な男も、主に呼びかけられて、感じる心がよみがえった。
アメリカの日系人教会に、結婚生活50年以上、一度も笑ったことがなかったという婦人がいた。70歳過ぎてキリストに出会い、失っていた笑みが戻ってきたとのことだった。「本当なんですよ」と、照れ笑いしながら、結婚前の写真を見せてくれた。踊り子だった少女の頃のかわいらしいブロマイドであった。主の憐れみで、停止した感動もよみがえる。
感動したなら、顔で、口で、体で、表現してみよう。大げさでなくていい。自分の性格に合わせて、でいい。表現することは大切だ。感動は永遠のいのちの喜びを伝える。