19世紀後半のある日、ロックフェラーのスタンダード・オイル社のキリスト信仰篤き役員が、出エジプト記2章を読んでいた時、稲妻に打たれたようになりました。
「女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた」(出エジプト2、3節)。
この箇所の「瀝青」という言葉に釘付けになったのです。「瀝青」があるということは、この地域に石油があるということです。翌日、彼はこの地域に調査団を送り込み、大規模な油田を発見することになりました。会社の海外戦略に貢献する大発見でした(イ・チェユン著『ロックフェラーが知っていた秘訣』から)。
聖書はよく「無尽蔵の宝の山」にたとえられますが、油田まで埋まっていたのですね。
主に期待しつつ、日々聖書を読む人は、求めているものを掘り起こします。いや、何かを求めて聖書を読んでいると、求めていなかったものにまでぶつかることがあります。聖書には、読む人それぞれにとって、まだまだ未発見の祝福や真理が隠されているのです。その発見は、自分の人生を変え、人の心を変え、そして社会を変え、世界を変えていくことになるかもしれません。
聖書を毎日読む人とそうでない人とでは、信仰の成長と結ぶ実の豊かさに、いつの日にか、大きな違いが生じます。そして、「新しい恵みの世界を知りたい」と期待して読む人と、そうでない人との間にも、さらなる差が出てくるでしょう。ですから、聖書を読むのなら、主の祝福を掘り起こすことを期待して、熱心に読みましょう。