幕末期、薩摩藩(鹿児島)は、ただ薩摩藩だけで、何と世界の最先進国である英国に、果敢に戦いを挑んだことがあります。全力を尽くしますが、城下を焼き払われました(1863年7月薩英戦争)。同じく長州藩(山口)も外国船に砲火を加え、翌年、英米仏蘭の連合艦隊に逆襲されて、下関は完膚なきまでに叩かれました(64年8月)。あの時代、欧米列強と戦火を交えることは、まったく無謀なことです。しかし、外国の力を思い知ったこの二藩は、攘夷から開国倒幕へと方針を転換し、新しい時代を切り開いていくことになります。
薩摩も長州も、負けることが許されているというか、負ける余力がありました。日本の端に位置する両藩にとって、負けることは決して悪いことではなかったのです。長州は、幕府による第一回長州征伐にも敗北しています。
しかし、日本国を統括する徳川幕府は、負けることが許されないというか、負けたら終わりでした。勝ち目のない列強国と戦ってみるなどという冒険は、立場上できませんでした。当然、薩長も日本の最高権力を握った後は、もう負けることが許されなくなります。それがこの世の権力者というものでしょう。
ところで、考えて見ますと、私たちクリスチャンというのは、この世で何度も負けることが許されているのではないかと思います。なぜか。最終的には、キリストによって、この世に勝利しているからです。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16・33)。この勝利が私たちのすべてです。それゆえ、今は負ける余力があります。そして、負けることができるから、恐れることなく、人々の心を収穫することができるのです。
私たちは、この世の勝ち負けにこだわらず、しかし、この世のことにも主の栄光を現すべく、全力を尽くしましょう。「倒されますが、滅びません」(IIコリ4・9)と信じて。