史上最高の愚行

愚行権というのがある。法律が許す範囲で、愚かなことをする自由である。命を縮めると医師に警告されても酒や煙草を止めない自由、不倫で家庭を破壊する自由、怠惰で人生を台無しにする自由など。実に、人間は愚行権を多々行使しながら生きている。結局自己破壊になるとわかっていても、愚かなことをせずにはおられないのである。自然環境破壊も人類が愚行権を行使した結果といえよう。人間は思うほど賢くはないようだ。

一方、こんな愚行もある。2000年シドニーオリンピックで、南アフリカの「やり投げ」選手が、競技出場を辞退した。「日曜に決勝が行われるが、その日は教会へ行く」というのである。常識からすれば、何とも愚かなことだ。オリンピックに出られるチャンスというのは生涯にせいぜい一、二度だが、日曜は毎週来るではないか。これまで金メダルを目指して汗を流してきたのではないのか。しかも、限られた人だけが享受できる栄誉である。

しかし、彼は自らのキリスト信仰によって、「人生には、オリンピックよりもっと価値の高いものがある」ことを表明した。オリンピックは一時のこと、主に仕えることは永遠の意味を持つ。一番大切なものは一貫して大切なのである。こうして彼は、1924年パリオリンピックのリデルに次ぐ、20世紀最後の『炎のランナー』となった。聖なる愚行である。

信仰、希望、愛は、ときに損得勘定を越え、自分を奉げる。敢えて人に負ける、人によい方を譲る、不利で困難な道を選ぶ、最も弱い者を味方にする。まるで目に見えないものが見えているかのように。でも、こうした愚かに思われる道が、光をもたらすのだ。

さて12月、史上最高の聖なる「愚行」を祝おうとしている。それは造り主なる神が、神の子キリストを、私たち罪人のために遣わされたことだ。主は、まことに愚かなほどに世を愛された。御子は愚行権を行使できないとは考えないで、「ご自分を無にして・・・人間と同じようになられた」(ピリピ2・6)。「私」のために神の御子が犠牲にされるなんて、こんな愚かなことはない。それゆえ、これ以上の愛はない。