ある富める婦人がお抱え運転手を募集した。彼女は志願者に自分を乗せ、片側が絶壁になった九十九折の狭い山道を運転させた。志願者らは、自分の運転テクニックを彼女に見せつけようと、ことさらに崖の側に車を近づけて運転した。ところが、最後の志願者は、できるだけ絶壁から離れて車を走らせた。彼女はその運転手を採用した。彼女が求めていたのは、安全第一で運転する人であって、高度な運転テクニックを見せびらかす人ではなかったからである。
ジェリー・ブリッジズが、そんな話を紹介したのち、こんなことを書いている。
自由とは、大胆に危険に身をさらしたり、自分を信じて誘惑に近づいたりすることではない。危険や誘惑に足をとられないように、できるだけ安全な領域に身を置くことである。たとえ罪ではなくとも、安全ではない道を選んではならないのだ。
キリストは、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」(マタイ6・13)と祈るように教えてくださり、使徒パウロは、「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5・13)命じている。
キリストの自由は、意味もなく、自分を罪の危険にさらすことではない。逆である。「肉の働く機会」から遠ざかることこそ、「真理が与える自由」(ヨハネ8・32)なのだ。大胆に自由を発揮すべきなのは、「愛をもって互いに仕える」ことにおいてである。
もしあなたが、お金、異性、酩酊、ギャンブル、ゲームなどに関して、十分安全な所に自分の身を置いていないのなら、今こそ、キリスト者としての自由を発揮すべき時である。主が、私たちを神の国の働きのために、どんな人を採用なさるか、明白ではないか。