動物園などのサルだけのコーナーには、実はいのししや他の動物が一緒に飼われているのだと聞いた。サルの社会はボスザルを中心とした階層組織が出来上がっている。もちろん、ボスが餌やメスたちを優先的に得るので、不満を持つサルや最底辺にいるサルたちの間にストレスが蓄積し、争いが起こり、秩序が混乱する。いのししなどが置かれているのは、それを防止するためだ。サルたちは、いのししをからかい馬鹿にして遊ぶことで、フラストレーションを解消するのだのという。
人間社会も、弱い者いじめで、見かけ上の秩序が維持されているといえるかもしれない。文化は、強者が弱者を犠牲にして発達する。しかし、最も恐ろしいのは、多数派の弱者による少数派の弱者へのいじめであると言われる。そのいじめの方が陰湿で残酷だからだ。先月も、いじめが原因と思われる中学生の自殺事件があったが、子どもたちも仲間の一人を死に至るまで容赦なくいじめる。そうしてストレスを発散しているのだろう。
人間が人間を支配するなら、強者の弱者いじめ、フラストレーションによる弱者の弱い者いじめは止まない。
ところで、詩篇23篇は、良き羊飼いが羊に平安と安全と豊かさを与えているので、羊は幸福に満ち足りているという情景を描いている。羊は、羊だけでは安全で秩序ある社会を築けない。飼い主が必要なのだ。飼い主に導かれれば、羊同士の争いもいじめもなくなる。
飼い主が必要なのは、人間社会も同じである。人間の力と考えによる、人間中心の社会であれば、サルの世界と余り変わらない。そんな社会は、不義不正、殺人、盗み、欺き、搾取、いじめがあふれ、弱者を犠牲にして秩序を保とうとする。しかし、キリストを私たちの飼い主として迎えるなら、詩篇23篇の世界、神の国の平和が出現する。教会は、まさにキリストを「羊飼い」とする羊の群れである。「緑の牧場」は神の言葉、「憩いの水」は聖霊様である。決して自分の飼い主を忘れてはならない。