先週、「偶然」を神とする「進化信仰」を本気で生きたなら病気になると書いた。
しかし、それを本気で誠実に生きようとしている人はいる。その一人が電通大の哲学教授中島義道氏で、その著書は結構人気を博している。その一つ『狂人三歩手前』(一読は勧めない。むかむかするだろう)の第1章「どうせ死んでしまう」の冒頭にはこう記されている。
「生きていく理由はないと思う。いかに懸命に生きても、いずれは死んでしまうのだから。他人のために尽くしても、その人も死んでしまうのだから。日本のため、世界のため、地球のために尽力しても、やがて人類も地球もなくなるのに、なぜ『いま』生きなければならないのか。なぜ『いま』死んではならないのか。私にはどうしてもわからない。」
「偶然」を神とするなら、当然この結論に行きつく。中島氏には嘘がない。「偶然信仰」を正直に生きているので、むしろスッキリする。論理に矛盾がない。では、中島氏はなぜ死を選ばないのか。それは生きる理由もないが、死ぬ理由もないからだろう。ただ、「死んだら無」という虚無を徹底して生きようとしているのだろう。だから「狂人三歩手前」になるのである。
私も、学生時代は、「なぜ核戦争で、人類が地球もろとも滅んではいけないのか。どうせ人間は死んだら無だし、地球もやがては消えるのだから、今滅んで何が悪いのか。そうなっても、宇宙はなんとも思わない」と真剣に考えていた。だから、キリストに出会わなければ、私も「偶然信仰」の伝道者になっていたことだろう。
人類は偶然に進化してきたにすぎないと信じている人たちの大多数は、中島氏のように本気では「偶然信仰」を生きていない。不徹底だ、中途半端だ、生温い。「偶然信仰」伝道者予備軍だった私には、それが実に歯がゆい。
では、私たちはどうか。どれだけ本気でキリスト信仰を生き抜いているだろうか。不徹底で、中途半端で、生温い生き方に、歯がゆさを感じないだろうか。