先月の岩渕まこと&由美子夫妻のコンサートで、星野富広作詞のユーモラスな「麺類の歌」が登場し、会衆も一緒になって歌い、楽しそうだった。私は、ああ、日本はいよいよ冷そうめん、冷麦、冷やし中華の季節だなあと思って聞いていた。
ところで冷麦は、そうめんとうどんと何が異なるか。違いは太さだけではない。冷麦には、ブルーとピンクの麺が、一束に付き1本ずつ入っている(みかんの産地静岡にはオレンジ色のがあるそうだ)。しかし、色がついていても、白いの麺と味が異なるわけではない。ただの飾りである。
なのに、たいていの人が、子供の頃、その色つきの1本を欲しがったと言う。兄弟で取り合いして、喧嘩にまで発展した思い出のある方もいよう。それを食べたからといって、健康になるわけでも、頭が良くなるわけでもない。なのに、なぜあんなものを欲しがったのだろう。不思議だ。冷麦製造者は子供たちに対し何を企んでいるのか、と問いたくなる。
コンサート中、しばし考えた。そして、これはレッスンなんだと思った。見かけの美しいものに心を奪われて、欲しがったり、取り合ったり、喧嘩したりするのは、まだ未熟だよ、精神的に早く成熟しなさいと、冷麦は子供たちに教えているのだ。えっ、考えすぎ?
でも、世の中、「冷麦の色つき麺」のようなものにこだわって、競っていることがある。食べたら消えてしまうものに、なぜそんなに血眼になるのかと問いたくなることがある。自分も、そんな「色つきの1本」で争っていることはないか、振り返ってみよう。
エデンの園には「好ましく食べるのに良い」数多くの木の実があった。なのに、エバはわざわざ、食べてはならない「善悪の知識の木」を取って食べてしまった。その木が目に慕わしく、いかにも好ましかったのだ(創世2・9、3・5)。ここから人類の不幸と呪いが始まった。「目に慕わしい」ものは要注意である。