日本のメディアが言葉の意味を堕落させることは周知の事実で、気にしないでおこうとは思うが、聞けばやはり気になる。
その一つが、「セレブ」。これはセレブリティcelebrityの略だが、どう見てもそうはいえない人たちに使われている。私は、学術、文化、政治など各界で、何らかの業績を成した名士、著名人のことを指すのだろうと思っていた。芸に秀でているだけではなく、品性、風格、学識豊かな人のイメージである。しかし、この国では、単なるお金持ちのことを指すらしい。その人からお金を取ったら、品性、風格など何も残らなくても、セレブなのだそうだ。セレブは、そう呼ばれたら恥ずかしい言葉になってしまった。
「名人」「賢人」もそうである。ちょっと料理や菓子作り、その他の一芸に秀でていたら、「名人」「賢人」と呼ばれる。「賢人なんてとんでもない。私は普通のおばさんですよ」と、言ってくれたら好感が持てるが、たいてい恥ずかしげもなく悦に入っている。「名人」というのはその道で最高峰に立つ人であり、「賢人」などというのは、尋常ではない知恵と知識と冷静さと謙遜さを持つ人のことであり、一時代に一人出るか出ないかぐらいの人物だと思うのだが。
メディアは過剰に人間を持ち上げて、言葉を陳腐で軽いものにしてしまう。
私たちは、神の言葉を大切に扱おう。悔い改め、聖さ、罪、愛(アガペー)など、いつも重く受け止めなければならない。ハレルヤ、アーメンは、神と真理についてのみに使われるべき言葉である。「使徒」はパウロらを最後に終わった特別な用語である。「聖人」「預言者」などと呼ばれる人が現代にいたら、よく吟味しなければならない。聖なるものを、みだりに唱えないことが、聖さを守ることになる。
ところで、聖書は、キリストの血で罪きよめられた人々を「聖徒」と呼ぶ。「聖徒」の実質を失わないように、主にふさわしい生き方をしよう。