「聖書起源の物事を除いたら」

「結婚を一人の男と一人の女に限定する一夫一婦制を、法律で定めたり、公立学校で教えたりするのは、憲法違反である。なぜなら、憲法は宗教・思想の自由を認めており、一夫一婦制は宗教(聖書)を起源とするからである。重婚はもちろん、男と男、女と女の結婚も認めるべきである」。そんなリベラリズムが、アメリカを中心に一つの勢力となって世界に広がっている。日本でも、一夫一婦制に反対する思想家や知識人は少なくない。同性愛を容認する勢力は、教会にも浸透し始めている。

 しかし、考えてみよう。宗教に起源する制度は憲法違反だというなら、殺人、詐欺、虚偽、偽証、窃盗などを犯罪として罰することも、学校でそれらは悪であると教えることも、必然的に憲法違反と言えなくないか。殺すな、偽証するな、盗むなという道徳基準は、聖書にある「モーセの十戒」を土台としているのだから。実際、アメリカでは、裁判所や公立学校での「十戒」の掲示を禁じて久しい(かつては掲示)。また、教室で「盗みは悪である」などと教えるのではなく、生徒の判断に委ねるべきであると主張する教職員グループもある。

また、「1週間」の制度も当然、憲法違反になる。7日目を休む安息日制は、聖書が起源である。キリストの降誕年を元年とする西暦を公的に採用するのも憲法違反だ。ひょっとすると、愛、寛容、謙遜、忍耐、平和、誠実、弱者救済・・・などを公立学校で教えることも憲法違反になるかもしれない。それも聖書が起源なのだから。

宗教を疎む人たちが、この社会を「絶対的基準である創造主」から切り離し、人間中心に再構築しようという傾向が強まっている。サタンはアダムに、お前が神になれると教唆した(創世記3章)。神を退け、人間が神となること、聖書はそれを罪と呼ぶ。そして、その結果は死であると教える。聖書の教えや聖書を起源とすることに逆らうことは、人類社会の崩壊であり、平和の破壊、人間の死である。このことに、教会は警鐘を鳴らし続けなければならない。