「あと1週間の命とわかったときにしなければならないことは、一生をかけてでもしなければならないことである」とは、フランスのクリスチャン思想家・数学者のパスカルの残した言葉である。そういう視点で、いま、クリスチャンとして自分のなすべきことは何かと、考えてみるのもいいだろう。
「私は生きているかぎり、全力を尽くして生きると決心した。一瞬たりとも無駄にせず、できるかぎり有効な方法で時間の使い方を改善しようと努めている。人生がもうすぐ終りという時に至ったらしないだろうことは、絶対にしないことに決めている」(Jonathan Edwards)。これは、「明日が終わりの日だったら、必ずするだろうことを、今日する」という生き方である。
あるクリスチャン作家が、癌で余命数ヶ月と診断され、身辺整理に取り掛かった。できる仕事を限定し、それに集中して、完成させた。赦すべき人は赦し、赦しを請うべき人には手紙にしたためた。財産をすべて処分し、家族への相続分、教会への献金と指定した。そうして身軽になった後、入院しようとして、誤診であることが判明した。誤診を怒るところだが、彼女は、懸案の仕事を完成でき、人生に整理がついたことに感謝したという。
そんな「事件」でもなければ、人間、なかなか自分の人生を締めくくる準備をしたり、身軽になったり、赦しを実践したりしないだろう。
3年後も、10年後も、20年後も生きていることを前提にして、私たちは生きている。将来に希望を見ることは大切であるが、同時に、今日しかないという生き方も大事である。
聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(ヤコブ4・13〜15)。