警告を無視するな

「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた(創世記19・14)。

 今年7月、九州北部で12人の犠牲者を出した豪雨災害で、同地域の住民34万人を対象に避難勧告・指示を出されたが、98%が避難していなかった。過去に被害体験がないことや、自宅の立地条件から判断して避難しなかったようだ。近年の「ゲリラ豪雨」では、突然に想定外の被害が出る。市町村は、災害対策基本法に基づき、危険地区の住民に勧告・指示を出す。「勧告」は安全な施設へ避難を促し、さらに危険性が高まれば「指示」に変わる。いずれも法的な強制力や罰則はない(西日本新聞090828)。

 私たちは、警告を聞いても逃げ出さない性質があるようだ。勧告を深刻には捉えない。法的な強制力や罰則がないからだろうか。しかし、自然からはしっかり災いを受けることになる。

 聖書の警告も同様である。それを無視しても、教会はその人に強制も罰することもできない。人間にはそんな権限はない。牧師もただの人間に過ぎないので、ただ神の命令、聖書の警告と指示を伝えるだけである。主の権威に従うかどうかは、私たち次第である。裁かれるのは主である。無視したことの結果は、しっかり負わされる。ソドムが滅亡した時、ロトの娘婿たちは警告を笑って無視し、結局、硫黄の火で滅んだ。ノアの時代に人々もそうであった。冗談にしか聞こえないのだ。深刻に受け止めたロトやノアの家族だけが助かった。

 ただし、聖書は裁きの警告だけをしているわけではない。むしろ、祝福の勧告をする。求めなさい、そうすれば与えられる。偉くなりたいなら、自分を低くして仕える者になりなさい・・など、祝福を約束する言葉は数多い。しかし、主なる神も、それを強制はされない。人間の自由だ。無視しても罰則はない。が、祝福は失う。

災いの警告も、祝福の警告も、真剣に受け止めよう。