役に立つ信仰、立たない信仰

人は「立て」という命令を聞くと、何百もの筋肉がバランス持ちながら同時に収縮して、立ち上がるのだそうだ。もちろん、何百という筋肉の一つ一つを意識的に動かして、立ち上がっているわけではない。脳と筋肉の神経がどうつながっていて、どういうシステムで動くのか、解明されていない。解明されていなくても、体はいろんな動きを瞬時にする。

 足の裏を指圧すると、内臓機能を促進する。体のある部分を刺激すると、その部位とは遠く離れた部分が活性化する。神経でつながっているわけではない。理屈では説明できないが、現実に効果は発揮する。また、漢方薬は、どのような理屈で効くのかわかってはいない。ただ、それが効くということだけはわかっている。それで十分である。その理屈を用いているのではなく、その効用を用いている。

 理屈が分かり、説明できることよりも、実際に、巧みに動き、効果を発揮することのほうがはるかに大切である。

 人は、神を頭で理解したがる。信仰を理屈で説明したがる。聖書の言葉を知性的に解明したがる。しかし、頭で理解して、論理的に言葉で弁明するだけなら、信仰は何の役にも立っていない。

 子供のように、自分の信仰を言葉や理屈で説明することができなくても、信仰を働かせ、聖書の言葉どおりに行っているなら、その信仰は力を発揮する。三位一体や、キリストが神であり人であること、復活の事実性などを説明することができずとも、それを実際にそのまま生きることはできる。その力を体験することはできる。

何でも理解できる知性的な頭を持っている人が偉いのではない。へりくだって下げることのできる頭を持っている人、素直に御言葉を体で実践できる人が一番偉いのである。「この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です」(マタイ18・4)。