昔は、歩くこと、走ることには目的地があった。若いころ、私は目的地までの乗り物代を稼ぐために、よく歩いた。何十キロ離れた所へも、自転車に乗って出かけた。しかし、健康のために走ったり歩いたりするなどということはなかった。
今日、人々は、走り、歩くこと自体を目的とすることが多くなった。運動になればいいのだ。皇居の周囲をたくさんの人がジョギングしているそうである。しかし、どこへも行き着かない。どんなに走ってもぐるぐる回って、走り出した所へ戻るだけである。
ルームランナー(ジョギングマシーン)などは、どんなに走ってもどこにも行き着かないどころか、前に進みさえしない。ただ健康のためだけに走っており、どこかに向かって走るのを目的にしているわけではない。とにかく、がんばること、汗を流すこと、継続することを目的にしている。私は、ときどき百円を払ってジョギングマシーンを利用する。回転するコンベアーの上で走っていると、どんなに走ってもどこにも行き着かない人生の空しさを感じる。
「走ること」と「目的地に向かうこと」が一つであるのが、本来の走り方だ。人生において、「走ること」と「目的地に行き着くこと」を切り離し、走ることだけに専念しているなら、どこにも行き着くことはない。ぐるぐる回るのみだ。目の前の事に没頭して時を移すだけで、何も達成することはない。走り続ける人生の先に一体何があるのか。そんなことは考えることもなく、終わりを迎えてしまう。
パウロは言う。「競技場で走る人・・また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません」(1コリ 9・26)。決勝点のない努力や忍耐は、徒労である。あなたはどんな走り方をしておられるか。ゴールは見えているか。