「老いても務めがある」100530

仏教では、生老病死を避け得ない人間の苦しみであり、諦念(不可避であることを悟り、あきらめる境地)を説きます。しかし、聖書では、老いることを特に苦しみとは見ていませんし、病気はキリストにはとって「神のわざが現れるため」(ヨハネ9・3)であり、死はキリストの十字架と復活によって解決されたことです。よみがえって栄光の体に変えられることを待つ日々です。

 ところで、成人して就職し社会人になるときを人生最初の転換期だとするなら、老年期に入るのは第二の転換期と考えるべきだと思います。クリスチャン精神科医ポール・トゥルニエがそういっているようです。

 モーセの後継者となったヨシュアは、ヨルダン川を渡り、約束の地を獲得する戦いを勝利に導き、その地を12部族に分け与えるという大業をなし遂げたとき、年を重ねて老人になっていました。その彼に主は仰せられました。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている」(ヨシュア13・1)。老人ヨシュアにもう休んでいいとは言われなかったのです。老いても、主の務めはあるのです。

 仕事は引退しても、クリスチャンとしての引退は死ぬまでありません。役目はあります。教会においては、姿が見えるというだけでも、役割を果たしています。ましてや、長年、忠実に礼拝の席を暖めて来られた方の発言には重みがあります。ある教会の総会で涙ながらに訴えられた80幾歳の方の言葉は、その方が天に召された今も、私の支えとして残っています。私にとっては助けとなった、本当にありがたい発言でした。

 ヨハネ8章の「姦淫の現場で捕らえられた女」の場面では、石を投げずに、最初に去っていったのは年長者でした。年長者が最初に最低限の良心を示したことで、年下の者たちも石を投げられなくなったのかもしれません。年長者が投げたら、若い者のそれに許可を得たかのように投げたでしょう。

 年をとればとるほどに、主の御言葉とわざに感動しましょう。祈りましょう。そして夢を見ましょう。若い世代とビジョンを共有しましょう。

若い方々へ。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」(レビ19・32)。あなた自身が敬われる老人になるために。